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学級通信

3Aクラス日記

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●学級通信




  少し大袈裟だけど・・・わが人生の「動」と「静」(その1)


 えらく大きなタイトルをつけてしまったが、今まで自分が歩んできた道のりを振り返ってみると、どうも「活発な時期」と「おとなしい時期」が周期的に繰り返されているような気がする。皆さんはどうだろう、そんなことはないだろうか。

 保育園から小学、中学校時代 
 思えば、保育園時代。あまり鮮明な記憶ではないが、それほど人の先頭に立ってどうのこうのというほど活発な子どもではなかった。どちらかといえば一人で、ごそごそと遊んだり、絵を描いたりしている方が多かったように思う。
 それが小学校に入ると、3・4年の頃までは、やれ学級委員だの何とか委員だの、友達から言われるままにどんどん人前に立つようになり、気がつけばすっかり人が変わったように活発な子どもになっていた。ところが5・6年になると、少々恥ずかしさに気づいたのか、しだいに後ろに引っ込むような場面が多くなり、人のやっていることを観察しては、自分の行動も見つめ直すといったような、客観的な目で周囲をとらえる、物静かな少年になっていった。
 ところが中学になると、どういうわけか性格が一変し、自分で台本を書いて演劇をやったり、学級の役員も次々と引き受けていくようになった。バレー部に入部し、練習も一生懸命だった。いつのまにか、自分がやらねば誰がするといった感じで、何にでも積極的に挑戦する、にぎやかな少年に変身していった。それまでは遠慮がちに接していた異性のクラスメイトともフランクに付き合えるようになり、たくさんの友人に恵まれた。親友と呼べる友人ができたのもこの時期で、今でも当時のままの付き合いが続いている。高校入試もなんのそので、前日になっても自分たちで作ったオセロゲーム(当時流行していたが、買えなかったので、厚紙にマジックで色をつけて作った)を教室でやっていて、担任の先生にひどく叱られたことを懐かしく思い出す。

 高校から大学へ 
 しかし、高校に入ってしばらくすると、そういう元気がどんどん小さくなっていき、外よりは内へと、自分の内面的な部分との対話が増えていった。中学同様、バレー部に所属していたが、体を動かすことにあまり関心は湧いてこなかった。その代わり、物事をとことんまで考えたり、本を読んだりと、周囲のいろんなことをじっくり見つめるようになっていった。それに合わせて、行動的な部分は表に出にくくなり、どちらかと言えばおとなしい高校生という印象だった。物事を考える方が行動するよりも自分に合っている。そんな時代だった。
 そして、大学時代。大学が岡山だったので、当然、親元を離れての一人暮らしをすることになる(下宿をしていた)。何となく自分が一人立ちしたような、ある意味で解放されたような気分だった。身の回りのことはもちろん、自分の行動すべてを自分で考えて、決めていくことができた。自由と言えば自由だが、それには責任がついてまわる。でも、周りにいる友人たちもみんなそういう感じだったから、すぐにとけ込めたし、お互いに助け合うことができた。それとともに、自分も「今こそ動かなければ」と、何事に対しても積極的に取り組むようになっていった。
 同じ下宿の先輩に言われるまま、まあ身につけておいて損はないだろうと入部した茶道部。最初は、どうしてこんなサークルに入ったのだろうと、その堅苦しさ、練習の厳しさを悔やんだが、少しずつわかってくるようになると、茶道の持つ奥深さが面白く感じられるようになっていった。体育会系のサークルにつきものの先輩後輩の関係に似たようなものも少しはあって、かなり苦労もしたが、先輩自身が、自分が入部させた後輩だからと、いろいろ気遣ってくれたし、表面上は厳しくとも、その裏には温かな優しさがあった。また、学生茶道連盟の理事として、広島や山口など中国地方のいろいろな大学にも何度となく出かけ、交流も盛んだった。
 そんふうにして、1回生から2回生へとだんだん生活にも慣れ、大学についてもおおよそのことがわかってくると、「なかなかいい時代や」「何でもやれるんとちゃうかナ」「おもいっきりやってみるか」なんて、時にはハチャメチャな行動もあったが、何かにつけて、思う以上に行動するようになってしまっていた。高校時代のおとなしさはどこへやら…そんな大学時代だった。
 生活のためとはいえ、アルバイトも楽しかった。違った世界を幾つも見せてくれた。夜12時から翌朝6時までの「駅弁作り」。ベルトコンベアー上での流れ作業だが、とにかくこれが食べ物か?…といった印象で、誰かが買って食べると思うだけで、少しぞっとしたこともあった。それ以後、しばらくは駅弁を買って食べようとは思わなかった。これ以外にもバスの添乗員、飲み屋の皿洗い、遺跡の発掘…などなど、いろいろな経験をすることができた。

 いよいよ社会人、しかし・・・
 そんなこんなで4年間の大学生活が終わり、いよいよ社会に飛び出していく時を迎えた。念願が叶って“教師”という職業に就くことができ、さあやるぞ!・・・と、大学時代の積極さをそのまま生徒にぶつけようという意欲でいっぱいだった。
しかし、ここで人生の土台を脅かす一大事が起こる。元気のいい時期はひとまずおあずけ・・・、そんな感じの母の入院だった。勤め出して半年あまりが経った10月末、ようやく学校での仕事の内容がわかりかけてきた頃だった。
 最初、倒れた時は、ちょうど稲の刈り取りが一段落した時期だったので、たぶんその過労だろうと家族の誰もが思っていた。普段からめったに病気などしない、元気な母だったから、すぐによくなるだろうと、そんなに深く気にも留めなかった。それまで、家の中で、母というのは、いて当然の存在だったから、別にその意味など深く考えていなかったが、いざその存在が家の中からなくなると、なかなか面倒なことが多いものだ。食事の支度を始め、洗濯や掃除など、これまでは気にもしなかったことが(当然目につかないところで、それを母がやっていたわけだが)、自分の目の前にドーンと・・・。