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昨日に引き続いて・・・わが人生の「動」と「静」(その2)
倒れた母は、気分がおさまるのを待って、自分で近くの開業医へ出かけた。しかし、どうもよくわからないらしい。こりゃ変だということで、大きな病院へ。そして、即、入院…。
最初、なかなか知らせてもらえなかったが、病名は「血小板減少性紫斑病」(血液中にある血小板が少なくなって、ちょっとしたことで出血しやすくなる)。しかし、これは表面上のことで、本当は「急性骨髄性白血病」。今でこそ、こうやって書けるが、その時は、一体どうなるのかという不安でいっぱいだった。それでも、何とかなるのではという気持ちの方が強く、まさかそのまま還らぬ人になってしまうとは思ってもいなかった。
見えない歯車
さて、家族の中で誰かが入院したとなると、それまでは当然と思っていた“家庭”というものが、急にガタガタと揺らいでくる。心を休める場という雰囲気じゃなくなってくる。毎日の病院通い、帰ってからの食事の支度、洗濯、その他身の回りのことなど、とにかく大変なことばかり。それらを、父と妹、そして僕が分担して、やらなければならない。精神的にどうのこうのという前に、しなければならないことが次から次へと出てきて、状況を冷静に考える余裕なんてなかった。それが、かえってよかったのだと思うが、学校へ来て授業をしたり、生徒と話したりしていると、本当に「ホッとするなぁ」と思えたし、それがある意味で僕の支えになっていたような気もする。
今までは、何の疑問も心配もしなかった、家族というつながり。その中で交わされる心の会話…。“見えない歯車”とでもいうのか、そんないろいろな支えがあって、自分が毎日暮らせる、仕事にも行けるんだと、その歯車が狂って初めて、そんなことを感じ取れたような気がする。辛かったことは事実だが、その中から学んだことも本当にたくさんあったと、今では思っている。
お互いに気を遣いながら
母の入院中、確かに苦しんだ。学校の帰りにスーパーに寄って、食事の材料を買う。家に帰っても、誰もいない。自分が鍵を開けて、電気をつけて…。そんな生活なんて、大学時代の下宿生活を除いては、今まで経験したことがないわけだし、とても味気ないように思えてならなかった(皆さんの中には、事情のあるなしに関わらず、毎日そうだ、それで普通だという人がいるかもしれないが…)。父は、夕方、勤め先からそのまま病院へ向かい、母の世話をしている。妹は、当時、まだ高校生(ちょうど皆さんと同じ)で、病院へ寄ってから帰宅することが多く、もっぱら僕が下宿時代の経験を生かし(?)、食事の支度をするパターンが定着していた。
洗濯物を干すのは、朝、一番遅く家を出る父の役割だった。前の晩、妹が自分のものを洗濯した後で、家族の分を洗濯する。それを、朝、父が洗濯機から出し、干す。妹には、高校生だし、勉強も大切だということで、必要以上の神経は使わせぬようにと、それなりに気を遣っていた父と僕だったが、妹自身も、逆に気を遣っていたのは当然のことだった。今までは、学校から帰っても、ダラダラとしがちだった妹が、物事をテキパキとこなすようになり、勉強(宿題)だってすぐに済ますようになった。こっちがびっくりするほどの変わりようだった。もちろん、そういった変化は、父にしても僕にしても同じことで、まず相手のことを考え、行動するようになっていった。
病院へ行って面会すると、母はいつも「すまないねえ…」と申し訳なさそうな表情を見せた。「ごはん、ちゃんと食べてるかい?」「学校の方はどうやの?」と、いろいろ理解しようとしてくれた。家にいないから、不安だったのだろう。短い面会時間に、家のようすや僕のことをあれこれと心配し、何かをつかみ取ろうと必死だったようだ。日増しに弱くなっていく母を見ているのは辛かったが、そんな気持ちを悟られてはかえって母を苦しめるだけだし、努めて明るく振る舞おうとしていた。でも、しょせん親子、僕のそんな気持ちぐらい、母はすぐに読み取れたことだろう。僕も、いくら母が強がりを言おうと、本心は何となくわかった。父にしても、妹にしても、きっとそうだったに違いない。
多くの人に支えられて
こんな毎日が、結局、半年間続く。しだいに慣れてくるにつれて、そんなに苦しいとは思わなくなり、それ以上に、こんな事態だからこそ強くならなければ、しっかりしなければと、家族の誰もが思うようになっていった。そういった心の通い合いが、自分の大きな支えだった。また、周囲の暖かな援助も忘れることができない。近所に住む叔母、隣の人など、たくさんの人たちが何かと助けてくれた。例えば食事ひとつにしても、少し余分に作ったからと、わざわざおかずを届けてくれたりもした。それが重なって、食卓がいっぱいになってしまう日もあった。本当にありがたいことだった。父と妹、僕の3人、喉も通らないほど嬉しかった。感謝しようにも、それをどう返すのか…。ただ、「すみません」、「ありがとうございました」、「そんなに気を遣わないで下さい」、「もう十分です」…と言うことしかできなかった僕たち。ただただ、頭を下げるだけだった。
やがて、こんな生活も終わりを迎えた。何度も通い続けた病院だが、もう二度と足を運ばなくてもいいようになった。しだいに進む病状を見て、父も妹も僕も、そして母自身も、たぶん生きて帰れないだろうと思っていたに違いない。覚悟はしていたはずだった。でも、いざ、その瞬間がやってくると、一瞬、時間が止まり、頭の中が空白になった。しばらくして、街を行く人たちや周囲の風景が、いつもと何も変わっていないのに気づいた。僕の身の回りでは、こんなにも大きな出来事が起こっているのに、周囲は何も変わっちゃいない。世の中ってこんなものか…。母の存在、自分や家族の存在、気持ち…、そういったものなんて、世の中全体から見れば、本当にちっぽけな、取るに足りないものなんだなあ…。そんな気持ちでいっぱいになり、なんだか気の抜けたような、それでいて「これでいいんだ」と思えるような、不思議な気分だった。そして、その後、堰を切ったように涙があふれてきた。せめて、もうあと2、3年…。だって、社会に出て、ようやくこれまで世話になった分を返すことができるようになったと思っていた矢先に、この世からいなくなるなんて…。これでは、母の人生、苦労ばっかり
じゃないか…。あまりにも悲しすぎるよ…。

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