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みんな同じ花じゃ、つまらない・・・
学校=勉強をするところ。勉強のよくできる子=成績の良い子。勉強のできない子=ダメな子。いい高校=進学率の高い高校。いい会社、いい家・・・。
学校に限らず、物事の良し悪しを決めるのに、私たちはいったい何を基準にしているのでしょう。人それぞれに“個性”があると言いながら、それをどれだけ大事にしているのでしょう。いろいろな人がいてこそ、お互いに磨き合い、高め合うことができ、ひいてはそれが成長へとつながっていくはずなのに、どうして“みんな同じじゃないとダメ”なんていう風潮がはびこるのでしょう。そうでないと安心できない? そうかもしれません。でも、そういう世の中にしているのは、私たち自身なのではないでしょうか。
植物の花は、すべてが桜のように春に咲くとは限りません。夾竹桃のように真夏に咲く花もあれば、菊のように夏の暑さに耐えた後咲く花もあり、椿や梅のように冬に咲く花もあります。人間だって同じじゃないでしょうか。その人の持つ“季節”になれば、必ず花開くものなんだと思えないでしょうか。
もちろん、ただ漠然と待っているだけでは、人間の花は咲きません。咲くための努力が必要です。すべての花が、来るべき開花に備えて、つぼみの中で着々と花芽を育てていくように、人間にも、花(=めざすもの)に向かってのたゆまない努力の積み重ねが必要です。そして、その努力が実った時、花が咲く。僕はそんなふうに思っているのですが、みなさんはどうでしょう。
しかし、今の世の中を見渡してみると、どう考えても、社会は人間をすべて同じ花だと決めつけすぎているように思えてなりません。さらに、みなさん自身までもが、まだ社会という荒波に足を踏み入れていないうちから、同じ時期に同じような花が咲かないと落ち込んだり、極端な場合は「どうせダメなんだし・・・」と、すべての希望がなくなってしまったかのように思ってしまうようです。学校という空間で考えるなら、そんなふうにみなさんに感じさせている要因の一端は、僕たち教師側にも責任があると言えるでしょうが、本当はそうじゃないはずなんですね。
第一、花にしても、色や形でその存在を認められるものもあれば、香りで生きる花もあります。どんな花にせよ、その存在価値や存在理由は必ずあります。誰かがどこかで必要としているのです。稲の花は、誰もじっくり見たりしないでしょうが、お米になると、その存在は嫌でも知られるものです。モミジやカエデは、花も実も人の気をひくことはありませんが、秋になり紅葉として色づいた時の美しさは、紅葉狩りという味わいのある言葉まで生み出したほど、昔から人々に愛されています。雪をかぶり、一段と美しさを増す松、食する喜びまで人に与える竹・・・など、本当にさまざまです。そして、その“さまざまであること”が、花にとってのすばらしさであり、同様に私たち人間にとっての良さであり、すばらしさなんだと思います。
「勉強だけが学校じゃない・・・」。もちろん、勉強あっての学校だということを踏まえたうえで、この言葉が真に生きる学校生活が送れたら、どんなにステキなことでしょうね。

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